崇仁親王妃百合子殿下 薨去

崇仁親王妃百合子殿下 薨去 崇仁親王妃百合子殿下には、 11月15日、午前6時32分、 聖路加国際病院において、薨去されました。 謹んで哀悼の意を申し上げます。 百合子妃殿下は101歳の 皇室の最高齢でおられました。 百合子妃殿下はここ数日、 徐々に全身の機能や意識の低下が進み、 それでも呼びかけにうなずくなど、 ご家族とお別れの時間を過ごされていましたが、 15日朝から血圧が下がり、 安らかに息を引き取られました。 百合子妃殿下のご遺体は、 午前の内に三笠宮彬子女王殿下の 付き添いのもと、赤坂御用地に移されました。 百合子妃殿下の薨去をうけ、 天皇陛下は午前中のご公務を取りやめ、 皇后陛下と共に赤坂御用地を 弔問されました。 百合子妃殿下は今上陛下の大叔母にあたり、 昭和天皇の末弟で上皇陛下の 叔父にあたる夫の 三笠宮崇仁親王殿下が 平成28年10月27日に 100歳で薨去されてより 当主として宮家を支えてこられました。 崇仁親王殿下が薨去される2年前の 平成26年の歌会始では、 次の御歌を詠まれています。  歌会始御題 静 思ひきや白寿の君と共にありて    かくも静けき日々送るとは 百合子妃殿下は高木正得子爵夫妻の次女として、 大正12年6月4日にお生まれになりました。 女子学習院本科を卒業した昭和16年崇仁親王殿下とご成婚なさいました。 3男2女をもうけられましたが、 平成14年に三男高円宮憲仁殿下、 平成24年に長男三笠宮寛仁殿下、 平成26年に次男桂宮宜仁殿下を亡くされました。 長女甯子さんは日本赤十字社社長を務めた 近衛忠煇さんと、 次女容子さんは、茶道裏千家第十六代家元の 千宗室さんと結婚されました。 孫では寛仁殿下の長女彬子女王殿下 次女瑶子女王殿下、 高円宮家の長女承子女王殿下の 3方が皇族として活動しています。 百合子妃殿下は、 古代オリエント史の研究を続けた 崇仁親王殿下を支えられた他、 恩賜財団母子愛育会の総裁や、 民族衣裳文化普及協会の名誉総裁などを 務められました。 とりわけ、恩賜財団母子愛育会の総裁は 昭和23年~平成22年まで60年以上、 務めてこられました。 母子愛育会は、昭和8年12月23日の 上皇陛下御誕生を機に昭和天皇から伝達された 御沙汰書をもとに、 昭和9年3月13日、創立されました。 創立当時の日本は、 経済不況に加え社会情勢が悪化し、 厚生省や保健所も設置されていない状況下で、 子どもや母親の保健は、 ほとんど顧みられない状態にありました。 社会の実情に即した科学的な研究を行い、 母子保護を目的に設立されました。 本会の会長を務める、 羽毛田信吾氏は、 「戦後間もない時期から長きにわたり 総裁として熱心にお務めになり、 愛育会の事業にお心を寄せていただいた。 妃殿下のご功績は、非常に大きなものがある」 とインタビューに答えています。 終戦直後より5方のお子様を 育てるご苦労を体験されていたからこそ、 母子保護の活動にもご熱心だったのではないかと 拝察します。 昭和53年の歌会始には、 そのご苦労が偲ばれる御歌を発表されています  歌会始御題 母 母たらむこと難きかな迷ひつつ    三十年あまり夢と過ぎにき 改めまして、 皇室をはじめ、 御近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、 謹んで心から哀悼の意を表します。 尚、本日より三笠宮邸内の特設テントにて、 一般記帳者の弔問記帳を 受け付けるようです。 詳しくは宮内庁のホームページより ご確認ください。     (ゆうな) 令和6年11月15日付 日本令和研究所メールマガジンより抜粋 一般社団法人日本令和研究所 東京都大田区上池台一丁目7-16-221