◎「予防原則」とダイオキシン規制 日下: しかし、いまだに焚き火などは禁止されているし、まだまだダイオキシンが有害だと思っている人たちは多いわけだ。 武田: つまり、ダイオキシンについては、一般の人たちなどは、まだ疑わしいと思っている人たちが多いわけですね。有害だと判定されなくても、「疑わしい」ということだけでも規制できるということが「予防原則」(注9)ということです。 ですから、ダイオキシンについては、この「予防原則」の問題でもあるのです。「予防原則」は、一九九二年にリオデジャネイロで開かれた環境サミット(「環境と開発に関する国際連合会議」)で「原則十五」として宣言されたものです。 予防原則では、それまでの水俣病、四日市ぜんそく、あるいは光化学スモッグなどの教訓の上につくられたもので、要するに公害などが起こる前に科学的根拠なく規制できるということです。 この予防原則については、私は講演でこんなふうに説明しています。 「お母さんが買い物に行って幼い兄妹が二人残っていた。弟が冷蔵庫を開けて食べようとした。お姉ちゃんが、『お母さんが帰ってくるまで待ちなさいよ。腐っているかどうかわからないから』と止める。これが予防原則です」と。 ということはどういうことかというと、お母さんが帰って来ていない状況では、腐っているかどうかはわからない。つまり、科学的根拠がないということになります。お母さんが帰って来て、はじめてお母さんに「腐っている?」と聞く。そこでは、はじめて腐っているかどうかわかる。もし、腐っていないのならば、そこで「食べていい」となって、予防措置は解除しなければなりません。 公害を経験したわれわれとしては、当然、このような予防原則を支持しています。 ところが、一九九二年に日本のダイオキシン報道が起こったときに、政府、環境省(当時の環境庁)は、この時点で「データはまだ出ていませんよ」と、毒性については科学的根拠がないということをきちんと伝えなかったんです。本来であれば、「データは出ていないけれど、動物実験では強い毒性がある。しかし人間の毒性は不明だ」と。そうきちんと説明したうえで「だから、とりあえず規制しておきましょう。それで結果を見ましょう」と伝えるべきだったのです。 そして、二〇〇一年一月に和田先生が論文を書かれたところで、ダイオキシン規制法を続けるかどうか、改めて決めればよかったのです。 ところがその前に何が起こったか。女性弁護士界における「ダイオキシン・リコール運動」など、ダイオキシン規制の方向へと、社会的な活動が積み重なりました。もちろんマ スコミもそういった流れを唆(そそのか)し便乗した。 そのために、せっかく予防原則といういいシステムを取り入れたにもかかわらず、それがきちんと機能しなかった。 ところがヨーロッパはどうかというと、ヨーロッパは予防措置の社会的施行に対して起こるべき不適切を防ぐ五項目というのをつくります。たとえば社会的に不公正なことが起こらないこととか、科学的根拠がないのだから「ない範囲にとどめる」とか、速やかに実験をして結果を明らかにするなどといったことです。予防原則を適応するときには、つねにそういう付帯条項がついているのです。 たとえば、ダイオキシンを仮に予防措置で禁止する。これはこれでいいのですが、そこから実験を重ねて、ダイオキシンがシロかクロかを決める。シロとわかったら、そこで規制解除の検討をはじめる。ヨーロッパでは、そういう社会システムが機能しているということです。
(注9)予防原則と一九九二年の「環境と開発に関する国際連合会議」
予防原則とは、化学物質や遺伝子組換えなどの新技術などに対して、仮説上でも、環境などに重大な影響を及ぽす恐れがある場合には、科学的に因果関係が十分に証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度、考え方のこと。
一九九二年六月三日から十四日まで、ブラジルのリオデジャネイロにおいて、「環境と開発に関する国際連合会議(UNCED)」が開催され、この会議で、合意された二十七の原則を宣言した。「予防原則」の考え方は、その二十七原則の中の原則十五で次のように、取り上げられている。
「環境を防御するため各国はその能力に応じて予防的取組を広く講じなければならない。重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがあるところでは、十分な科学的確実性がないことを、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き伸ばす理由にしてはならない」
このように、単純な「疑わしきは罰す」論と区別するために「予防原則(precautionary principle)」ではなく「予防的取組(precautionary approach)」と呼ばれることが多い。
『作られた環境問題』NHKの環境報道に騙されるな! 武田邦彦・日下公人 (WAC 文庫 平成21年発行)より R061211 P68